tapingによる現代アート作品。
テープ(=つなぐ、四角形を貼る、包帯も?)による作品(抽象表現・即興表現)。
はかなさ、よるべなさ、時間性(壊れること、壊れて行くこと)。
taping art:Beyond Code
2011年2月5日更新
Beyond Code

 (物語の氾濫について)

 人は、なぜ、こんなにも物語が好きなのだろうか。誰もが物語が好きで好きでたまらないらしいのだ。それは、生れてから死ぬまで、しかも、起きてから眠るまで(いや、眠ってからも夢物語に耽るのだから、ほとんど休みなく)延々と続けられる営為なのである。自分で物語ること、そして、他者の物語に接すること。人は、常に物語り続けるのをやめようとは決してしないし、他者の物語に接することもまた同様である(それが最も如実に現れているのが、言うまでもないことだが、子供である)。では、物語とは何か。それは、簡略に定義するなら、言語記号や映像の記号を配置して意味付けられた営為の総称である(では、記号とは何か。それは、一定の思想内容を示すための手段の総称だったり、あらゆる関係の網の目の結節点だったり、記号表現と記号内容とのコードによる恣意的結合体だったりと、さまざまに定義され、機能もする意味の単位に他ならない。ここでは、特に必要ないので、二重分節や記号素、音素については触れないこととする)。噂話(ゴシップだのスキャンダルだの)、自慢、独白、体験談、伝記やノンフィクション、身の上話や自伝、夢物語、住居や住宅に関する幾つもの習慣やルール、ファッション、流行、マスメディアもしくはマスコミ(ラジオ、テレビ、新聞など)の流す広告やCM・ニュース・ワイドショーや各種の番組、昔話、神話や民話、看板、標識、文学(詩、小説など)、美術や音楽などの藝術、大衆文化(ポップスやロック、歌謡曲やメロドラマなどの雑多な多様体)、映画、写真、ドラマや演劇、アニメーションや漫画、言語論や記号学、科学、批評、哲学、論理学、数学、社会学、生態学、落書き、その他、架空の事象でも現実の出来事でも理念的な記述でも粗雑な内容でも緻密で体系的な論述でも、言語記号や映像の記号を配置して意味付けられた営為であるのなら、すべてが物語と呼称され得るのである。それは、一語でも一文でも一枚のスナップでも、充分に機能する虚構の産物である。また、物語を表現と言い換えても同じことだろう(ここでは、物語と表現とを明確な概念規定により区別しないものとする)。物語ること、そして、物語に接すること(もしくは、表現すること、そして、表現に接すること)。人は、一生涯、物語と表現を愛して愛してやまないのである。まさに、人間が人間である所以は、自分で物語り、他者の物語に接することにあると言って良い。まさに、物語とともに生れたのが人間なのである。いや、人間の誕生と時を同じくして物語も登場したのではなかったか。今や物語の数は膨大である。人や文化が変わろうと、時代が異なろうと、物語は産出され続ける。人間が絶滅でもしない限り、物語は不滅である。
 人は、今まで、あらゆる物語を産出し、さまざまな何かを表現して来た。言説は多種多様に展開されている(ただし、それらは皆、かなり似通った物が多いと言って良い。言説は、多種多様だが、良く観察してみれば どれもこれも、必ず、どこか似ているだろう。ここでは、とりあえず、そのどれもが構造が同じなのではないかという指摘をするにとどめておく)。例えば、人が物語り、表現して来た結果をただ羅列するだけで、何冊もの膨大な書籍が成立する筈である。そうであるのなら、まさに、百科全書ならぬ『表現全書』という名称を持つ書籍群(全集と言うべきか、いや、最近ならば、CD-ROMによる集成が相応しいだろうか)を企画・作成したらどうだろうか。表現とは何か、人は、今まで何を表現して来たのか、音楽や文学や絵画などのジャンルの相違と表現の関連性は、どのように定義付けられるのか、また、そのテーマ、その技法、その構造、その表現を成立させ、支えているコード(規制)は何か、表現に関するありとあらゆる情報(通時的、共時的)を網羅し、その内実を明示するカタログであり、マニュアルである『表現全書』という存在を組織し、現出させること。中途半端な思いつきや無自覚な発想なら、その『表現全書』には、もっと優秀な事例が既に掲載されているから、どうでも良い小賢しいアイデアや剽窃めいた小手先のみの作品を封じるという役割をもあわせ持つ筈である(例えば、フローベールの構想した『紋切型辞典』を想起すること)。だから、『表現全書』の膨大な網の目から、こぼれ落ちてしまう営為か、既存の方法の新しい結合や総合が、『表現全書』以降の表現となる訳だ。そこでは、ある作品を制作するには、このような技法を習得し、このように仕上げれば良いという教師的アドバイスよりも、そのような試みは既に緻密になされており、趣味で続けるというのではないのなら、もっと別の試みを考えたほうが良いのではないかという反教師的で反省的なアドバイスが、常に優先されていることになるだろう。まさに、『表現全書』は、単なる技法書の類いとは根本的に異なる営為なのだ。そんな『表現全書』を儚くも夢想し、構想してみること。だが、ここで、表現と表現ではないものとの境界(藝術と藝術ではないものとの境界と言っても良いだろうか)は、どこにあるのだろうという疑問が湧くかもしれないが、その境界を実体化(正確には捏造だろう)し、表現と表現ではないもの(内部と外部)という二元論を弄ぶことは回避しなければならないと、ここでは言い添えておく。つまり、絶対的な境界がある訳ではなく、ある時点で表現だったものが、ある時点では表現ではなくなっているか、ある時点で表現ではなかったものが、ある時点では表現になっているという恣意的連関が現実なのであって、それは常に絶対的で実体的な関係ではないということを想起することが求められるだろう。
 今や物語も表現も膨大に展開されている。だから、人の考えることなど、もう既に誰かが物語り、表現していると思っていたほうが良いだろう。しかし、それでも、人は、物語り、表現しようと躍起になり、まるで冷静さを失い、矢継ぎ早に「次ぎは?」と誰にでも問いかけるのだ。人は誰も、物語を掘り起こしたり掘り返すのに夢中で、物語を掘り下げることなど思いも寄らないらしいのだ。それは、まるで物語の奴隷とでも呼称すべき状態である(それが典型的に現われているのが、漫画であり、テレビゲームのRPGソフトであると言っても良い)。
 だから、宇宙のどこか遙か遠い場所に物語のエネルギー体とでも呼称すべき思念の実体化したような生命体(いや、端的に物語体とでも呼称するか?)が潜んでいて、人間が物語り、表現する際の意識だの心だの無意識だの脳だのの発するエネルギーを吸収して成長を続けてでもいるのではないか、と勘繰りたくもなるというものなのだ。まるで出来の悪いSF小説の設定のようだが、実は、その物語体が人間を誕生させたのであり、物語や表現が産出される時のエネルギーこそが奴の主食なのである。だから、やがて、いつか、その物語のエネルギー体によって宇宙そのものが覆われてしまうのではないか、と、危惧してみたくもなる。奴は、すべてを食い尽くし、すべてを吸収する。そうだとするなら(いや、そんな筈はないと思いたいが)、まさに、人は、その物語のエネルギー体に自ら奉仕し働く奴隷に過ぎないのではないか。そこでは、何が物語られようと構わない。しかも、どんなに緻密で巧妙な物語批判でも現象としては同じことだ。なぜなら、語られ表現されさえすれば良いからである。要するに、物語と表現に費やされる膨大なエネルギーだけが物語体の望むところなのだ。
 この世界のどこを見ても物語ばかりではないか。右を向いても左を見ても、表現された何物かしか存在し得ないのだと言わんばかりである。まさに、この世界は、表現で溢れかえっている。物語と表現の大海で溺れようとしているのが、人間の真の姿だと言えるかもしれない。そして、それらの物語や表現を更に加速させ、多種多様化している物がある。作品である。それは、膨大で途轍もない虚構捏造の場だ。つまり、作品とは、物語そのものや表現それ自体(別の言い方をするなら、虚構一般である)を、自明の理として持続させ、維持させ続けるための巧妙で狡猾な装置に他ならない。それは、まるで、物語のエネルギー体の用意し、準備した周到な仕掛けであるかのようである。まさに、作品という場は、物語も表現も、まるでそれらが自由で、とらわれのない思考や行為の配置であり、文脈化され意図的に解釈された虚構の連鎖ではないかのような錯覚を煽り立てる(それが、まさに、物語体の仕組んだ精巧な罠であると勘繰りたくもなるではないか。しかも、作品に類似した環境は、あらゆる場所に現出する。例えば、人が二人、世間話に集まれば、それで充分である。その対話の場では、何が前提条件なのかなどには構うことなく、共通の話題である物語が思い付くままに持続され、維持されるだろう。端的に言えば、そこでは、問われた者は答えなければならないような雰囲気が醸し出され、常に物語は持続され、維持され続けるだろう。言葉が尽きるか、何か用事ができるか、二人の間に険悪さが訪れるかするまで、物語は終焉することがない。それもまた、ここで言う作品と同種の環境に他ならないのである)。しかし、本当は、物語も表現も不自由な何物かの別名に他ならない。常に人は誤解し、信じ込んでいるが(それも物語体が人間にプログラムしたためなのかもしれないが)、物語も表現も、まさに、不自由な営為以外の何物でもないのである。なぜなら、物語や表現の場に身を置く時、人は、物語や表現に操作されているという逆説的な状態に陥ってしまうからである。そして、誰もが、自分自身の意志で物語り、表現していると錯覚しつつ物語り、表現する(しかも、物語り、表現するためには、文法構造や語彙といった言語の体系を習得し、自明の理としなければならない)が、そこでは主体である筈の語り手自身が、表現者自身が、他の主体と交替しても何も変わらない(稚拙さだとか、深さだとかといった差異がそこにはあるだけだ)。いや、物語や表現の場にあっては、主体であると思われていた語り手自身や表現者自身が、いつのまにか客体となってしまう。端的に言えば、常に物語と表現が主体なのである。そこでは、何が語られようと構わない。たとえ何が表現されようと変わらない。何かが語られ、何かが表現されさえすれば良いのである(それが物語体の望むところなのだ)。そこでは、いつも物語と表現が主体である。しかも、反体制の言説が体制を図らずも補完してしまうように、物語批判もまた物語としてしか現前し得ず、物語を図らずも補完してしまうだろうし、表現もまた同様である。だから常に物語は語られ、常に何かが表現され、そして常に物語と表現は勝利する(常に物語体が勝利し、常に物語体は肥大を続けるのだ)。そして、それらの物語そのものや表現それ自体を自明の理として持続させ(恣意性の体系である記号の交錯により文脈化され、意図的に解釈された虚構の連鎖ではないかのような錯覚を煽り立て)、維持させ続けるための巧妙で狡猾な装置が、作品に他ならないのである。極論すれば物語が自分の意志で人に物語らせ、表現が自分の要望のために表現させるのだ。そこでは、人は、常に物語と表現の奴隷に他ならない。執拗に繰り返せば、それを仕組んだのは、あの物語のエネルギー体、つまり、物語体に他ならない。何とも戦慄すべき事態である。強大で不可視の物語体の前では、なす術もないのだろうか。
 しかし、戦慄ばかりもしてはいられない。ならば、まずは、表現とは何であるのかを問わなければならないだろう。ここで言えるのは、表現も物語もシステムに他ならないという事実である。再び繰り返すならば、確かに物語も表現も、言語記号や映像の記号を配置して意味付けられた営為の総称であると定義付けられるだろうが、噂話(ゴシップだのスキャンダルだの)、自慢、独白、体験談、伝記やノンフィクション、身の上話や自伝、夢物語、住居や住宅に関する幾つもの習慣やルール、ファッション、マスメディアもしくはマスコミ(ラジオ、テレビ、新聞など)の流す広告やCM・ニュース・ワイドショーや各種の番組、昔話、神話や民話、流行、看板、標識、文学(詩、小説など)、美術や音楽などの藝術、大衆文化(ポップスやロック、歌謡曲やメロドラマなどの雑多な多様体)、映画、写真、ドラマや演劇、アニメーションや漫画、言語論や記号学、科学、批評、哲学、論理学、数学、社会学、生態学、落書き、その他、架空の事象でも現実の出来事でも理念的な記述でも粗雑な内容でも緻密で体系的な論述でも美的な構成でも、言語記号や映像の記号を配置して意味付けられた営為であるのなら、どのような物であろうと物語とも表現とも呼称されるという訳である(しかも、事実が語られ、映像化されているとしても、それらは、すべて虚構の産物に他ならない。なぜなら、それらは、言説は語順や構文の配列、文体や解釈などにより、映像はトリミングもしくは構図の組み合わせやシーンの配置や編集、解釈などにより、完全に文脈化され操作された意味の連鎖であるからだ。要するに、物語も表現もすべて程度の差こそあれ虚構に他ならないのである)。そして、それら物語や表現の根底を逐一見てみるならば、そのどれもが構造を持つ体系として、つまり、システムとして、それぞれが円滑に作動しているのは明白な事実なのである。そう、すべては、システムに他ならないのだ。
 では、システムとは何か。それは、構造を持つ体系(別の言い方をすれば、要素を持つ階層的かつ共時的秩序とも、恣意性に基づく差異の体系とも言い換えることも可能だろうが)として、あらゆる領域で、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、多種多様な名称を与えられながらも、必ず複雑多岐な関係の網の目(ネットワーク、もしくは錯綜体)として存在し、すべてを規定している途轍もない何物かに与えられた名称である。すべての物事それぞれは常にシステムとしてしか存在し得ないのであり、それらシステムそれぞれが多種多様に複雑多岐に連鎖し合い、組み合うことで、途轍もなく膨大で複雑な怪物的状況を呈しているのである(例えば、一枚の絵の上に重ねて絵を描き、更にその上に別の絵を描き、またも違う絵を重ねて描くという行為を何度も執拗に繰り返した時に現出する一点の絵画という入れ子状の作品を想起してみること)。つまり、すべての物事は、多種多様なシステムの連鎖・組み合わせに依拠することでしか存在し得ないのである。物語も表現もまた例外ではない。人と人との存在も、まさに、数え切れない程に多種多様なシステム(いや、この場合はコードと呼称するべきか)が錯綜し、構成する関係の網の目(もしくは結節点)として現前しているのに他ならない。人が意識しようとしまいと、すべての物事(生命、環境、その他、存在するありとあらゆる事物のすべて)は、それぞれが常にシステムとして存在している。そして、それらシステムのそれぞれが連鎖し合い、組み合わさることで、途轍もなく膨大で複雑な怪物的状況を呈しているのである。
 システムがすべてを覆っている。あらゆる領域にわたって、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、システムが君臨している。まさに、システムが宇宙のすべてを覆い尽くしていると言って良いだろう(あの物語のエネルギー体もまたシステムに他ならないのだ)。要するに、システムとは、あらゆる領域で、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、多種多様な名称を与えられながらも、必ず複雑多岐な関係の網の目(ネットワークもしくは錯綜体)として存在し、すべてを規定している途轍もない何物か(しかも、それらは、恣意性に基づいた差異の体系に他ならない)の総称である。しかし、そんな怪物的状況をシステムの一語で呼称しつくすのは無謀かもしれないが、システムと呼称する以外に良い方法はないようなのだ。なぜなら、多種多様な場面で個別に呼称される名称に、逐一従っていたら、このシステムの錯綜体たる怪物的状況を一挙に把握することなど永遠に不可能だからだ。例えば、システムの別名を個別に脈絡もなく列記すれば、以下のようになるだろう。それは、ルール(規則)、コード(規制)、制度、体系、秩序、言語、規範、共同幻想、物語、文化・社会体系、法体系、貨幣概念、本能(正確には欲動)、倫理、政治形態、物質や生物の生成原理、細胞学、仮想現実、環境生態系、プログラミング(コンピューターシステム)、交通・移動システムの作動原理、心理学、経済システム、構造主義、ポスト構造主義、サイバネティックス、コミュニケーション、ゲーム、コノテーション(共示)、自己組織化、無意識、脳科学、線形・非線形科学、生理学、機械の作動システム、生体内の循環系統、宇宙の構造、資本主義、大衆社会、遺伝子学、情報、表現、神話など、その種類や分野、レベルに応じて、変幻自在としか言いようのない君臨ぶりを示している。まさに、それは、怪物的状況なのである。これらすべてをシステムの一語で記述してしまうのは、無理があるのは始めから承知しているが、しかし、個別の名称に従っていたら、このシステムの錯綜体たる怪物的状況を一挙に把握することなど永遠に不可能なのだし、これらすべての現象の根底を見るならば、そのどれもが構造を持つ体系として、つまり、システムとして、それぞれが円滑に作動しているのは明白なのである。何度も執拗に繰り返すけれども、実際、システムは、あらゆる領域で、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、必ず複雑多岐な関係の網の目(ネットワーク、もしくは錯綜体)として存在し、すべてを規定しているのだ。だからこそシステムについて語ることが、すべての重要な論点となるのである。そして、ここでは、詳述は控えるが、すべての物事それぞれをシステムとして捉える、このような物の見方をシステム論と呼称することとする。また、多種多様なシステムの中でも、しっかりと準拠しているのにも関わらず、意識もしないで自明の理として受け入れている思考や行為、規則を、ここでは、制度と呼称し、それらの制度に準拠も依拠もしながら自動的に紡ぎ出される思考や行為の総体を、ここでは、先の定義に加えて、物語と呼称する。そして、物語そのものや表現それ自体を自明の理として持続させ、維持させ続けるための巧妙で狡猾な装置を、作品と呼称する。そして、それらの制度や装置を準備させたのが、あの物語のエネルギー体であると言えば蛇足になるだろうか。
 まさに、物語も表現も溢れかえっている。この世界のどこを見ても物語ばかりではないか(それは欧米化した文明社会だろうが、欧米化を免れ続けている非文明社会だろうが、程度の差こそあれ根本的には同じだ)。右を向いても左を見ても、表現された何物かしか存在し得ないのだと言わんばかりである。まさに、この世界は、物語と表現で溢れかえっている。しかし、それを可能にしているのは、一体、何だろうか。どれだけ多様に物語れるかではなく、物語ることを可能とさせている前提条件(例えば、言語というシステムとか、社会というシステムの錯綜体とか)こそを問うべきなのではなかったか。思うに人間とは、システムの連鎖・組み合わせに依存していつつも、そのシステム自体を分析・解明しないではいられない存在であるのと同時に、システムに依存しているという事実は自明の理として、すっかり忘却し去ったままで、新しい物語や思考の言説を生み出すことに異常に熱中する生物システムらしい。まさに制度的な生物というのが人間の真の姿なのかもしれない。人は、そこで、知らぬ間に物語に操作されているという無間地獄に陥るのである(しかも、そこは、異常に快い陶酔的な世界でもあるのだが……)。人が意識しようとしまいと、宇宙の成り立ちや原子の動向、自然生態の実際から本質、各種の言語の仕組みから社会・文化の秩序・規則・現象、人間という生体の研究、思考や欲動の実質、動植物の淘汰から行動など、すべての物事(生命、環境、その他、存在するありとあらゆる事物のすべて)は、常にそれぞれがシステムとしてしか存在し得ないのである。そして、それらシステムのそれぞれが連鎖し合い、組み合わさることで、途轍もなく膨大で複雑な怪物的状況を呈している。だから、今、必要なのは、流動し錯綜せるシステムの流体力学とでも言うべき方法なのである。そうであるのに、人間は、システムの内実を問うことよりも、システムの連鎖・組み合わせを自明の理として、饒舌に物語を創作し、披露し続けることに異常に熱中する(だが、そこでは、人は、物語に操作されているという逆説的な状態に陥ってしまうのだ。そこでは、人は、常に物語の奴隷に他ならない)。そして、その物語それ自体が、制度に寄りかかりながら自動的に紡ぎ出され続ける思考や行為の総体が、実際は、人を殺しも生かしもして来たことを、人は、どれだけ知っているのだろうか。物語という幻想もまた巧妙で狡猾なシステムに他ならないのである。そうであるのなら、饒舌な物語を創作し、披露し続けるのを中断し、あらゆる物語というシステムを明白にすることが重要なのではないか。だから、物語をまずは中断し、分析・解明し、その内実を提示すること(もう既に、充分以上に物語って来たではないか)。少なくとも物語もまた巧妙で狡猾な隠蔽のシステムに他ならないことを認識した上で、自覚的に物語るべきではないか。自明の理として、いつのまにか忘却し去っている物語というシステムの連鎖・組み合わせこそを対象化しなければならない筈である。つまり、物語や表現を成立させ、支えているシステムこそを問わねばならないだろう。
 だが、人は、なぜ、それ程までに執拗に物語り、あくまでも表現を続けてやめないのか。そして、物事が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、なぜなのか。なぜ、すべては、常に必ず意味してしまうのか。そんな解答の存在しない疑問を執拗に繰り返したくなるというのが、実際のところである。敢えて答えようとするなら、人間とは、存在とは、そういうものなのだと言うしかないのだろうか。例えば、何も意味しない場、物語も表現も存在し得ないような磁場を夢見ることは、無意味だろうか。そんな場の存在は、そもそも不可能だろうか。物語も表現も一瞬で凍り付き、空白化し、無となり、物語も表現も存在し得ないような、どことも知れない場は、見果てぬ儚い夢なのだろうか。これ程までに物語や表現が溢れかえっていると言うのに、その程度の儚い夢さえ実現は不可能だと言うのだろうか。いや、そんな筈は……。
 まずは、物語や表現を成立させ、支えているシステムそれ自体こそを問わねばならないだろう。端的に言えば、すべての物語や表現を成立させ、支えているのは、常にコードである。物語や表現に限らず、すべてを規制し、存在を可能とさせている何物かが、コードなのである(では、コードとは何か。それは、もう既に明白だとは思うが、太い紐でも配線のための電線でも円弧上の二点間を結ぶ線分でも音楽においての和音の名称でもなく、ましてや暗号の別名でもない。文字を書く「ろう板」、あるいは「綴じた本」に由来する用語で、法律や法則から規則や規制として、もしくは共同幻想として、あらゆる現象を規定し、拘束する記号体系の総称である)。すべての存在は、中心も周縁もなく錯綜し合い、複雑に絡み合うコードの相互作用に規制されているのである(要するに、それは、コードの織物と言って良い)。例えば、一つの記号とは、複雑に絡み合ったコードの連鎖・交錯上の一つの結節点であって、そこでは、主導権をめぐって、コードとコード、記号と記号が常に攻め立て合う空虚な闘争の場であると言って良い。物語も表現も、まるでそれらが自由で、とらわれのない思考や行為の配置であるかのような錯覚を煽り立てているけれども、本当は、すべてを規制し、存在を可能とさせるコードによって、束縛も拘束もされている不自由な何物かの別名に他ならない(人は誤解し、信じ込んでいるが、物語も表現も、まさに、不自由な営為以外の何物でもない虚構の産物なのである)。例えば、言語。それは、統語論(統辞論、構文論)や意味論などの煩雑なコードの体系に規制され、構造化されて初めて機能する壮大な体系に他ならないのである。言語を習得し(言語の多様なコードの体系に拘束されて、というのが実情である)、自明の理としてしまえば、人は、自由自在に物語っていると錯覚し得ると言うのに過ぎないのである。例えば、文化。それは、まさに、錯綜し錯乱した恣意性の集積したシステムの多数多様体なのであり、別の言い方をすれば、膨大で複雑に絡み合った多種多様な記号の束なのである。そして、それらを成立させ、支えているのがコードに他ならない。だから、文化の内部で無自覚に生きるなら(つまり、文化の産出する情報を無自覚に摂取するなら)、人は、文化の捏造する不自然な規範に操作される奴隷となるしかないだろう。物事すべての根底を観察するならば、どのような場にあっても、膨大なコードにより規制され、拘束されているのが理解できる筈である。物事が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、まさに、コードにより規制され、拘束されているからに他ならないのである。それは、あらゆる領域で、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、多種多様な場で、必ずすべてを規定している途轍もない何物かに与えられた名称である(まさに、それは、コードの織物だ)。要するに、物語や表現だけではなく、すべてを規制し、存在させているのがコードに他ならないのである。だから、あらゆるシステムを規制し、存在させているコードを明白にするという作業が残されているのではなかったか。記号の意味作用を、複雑に絡み合うコードの交錯を読み取り、明示すること、これである。少なくとも、常にコードを自覚しようとする姿勢が求められていると言って良いだろう(ただし、ここでは、コードの逐一を列挙することはしない。それは、別の場、別の立論で展開されるべきテーマである)。
 自分自身もまたシステムの複合体(錯綜体)に他ならない。そうであるのなら、自分自身とは、どのようなシステムによって作動しているのかを熟考することが、まずは重要なのではないか。自分自身の無自覚な物語を自覚し、可能な限り明白にすること、これである。「私は、どのようなシステムの錯綜体であるのか」と問い続けること。例えば、どのような生体システムを基盤として、どのような文化(思考、趣味嗜好、感性など)システムを織り上げているかを、自覚しようと常に試みること。そして、それら多様なシステムの錯綜体を規制し、拘束し、存在させているコードの体系そのものを自覚し、明白にしようと常に努めること。
 物語も表現も不自由な営為に他ならない。なぜなら、物語や表現の場に身を置く時、人は、物語や表現に操作されているという逆説的な状態に陥ってしまうのだ(しかも、それは非常に快い陶酔的な状態であって、人は、そこで、いつのまにか覚醒を忘れてしまうのではないか。それとも、それを忘我の状態として賞揚すべきだろうか)。誰もが、自分自身の意志で物語り、表現していると錯覚しつつ物語り、表現する(しかも、物語り、表現するためには、統語論もしくは統辞論、構文論や意味論などの煩雑なコードの体系に規制され、拘束された言語の体系を習得し、自明の理としなければならない)が、そこでは主体である筈の語り手自身が、表現者自身が、他の主体と交替しても何も変わらない(稚拙さだとか、深さだとかといった差異がそこにはあるだけなのだ)。いや、物語や表現の場にあっては、主体であると思われていた語り手自身や表現者自身が、いつのまにか客体となってしまう。端的に言えば、常に物語と表現が主体なのである。そこでは、何が語られようと構わない。たとえ何が表現されようと変わらない。何かが語られ、表現されさえすれば良いのである(それが、あの物語のエネルギー体である物語体の望むところなのである)。そこでは、いつも物語と表現が主体である。しかも、反体制の言説が体制を図らずも補完してしまうように、物語批判もまた物語としてしか現前し得ず、物語を図らずも補完してしまうだろうし、表現もまた同様である。だから常に物語は語られ、常に何かが表現され、そして常に物語と表現は勝利する(ということは、常に物語体が勝利し、奴は常に肥大し続けるという訳である)。極論すれば物語が自分の意志で人に物語らせ、表現が自分の要望のために表現させるのだ。そこでは、人は、常に物語と表現のための奴隷に他ならない(屋上屋を繰り返すならば、人は常に物語体のための都合の良い奴隷に過ぎないということ)。だとしたら、どうにか有効だと思われる唯一の心許ない方法は、自分自身というシステムについて熟考することではないか。そして、ありとあらゆるシステムについて目を向けること。つまり、どのようなシステムによって物語や表現が成立し、支えられているのかを常に問い続けること。システムの対象化と相対化を繰り返す試みを執拗に続けてやめないこと。そして、多種多様で複雑多岐なシステムの錯綜体を規制し、存在させているコードの体系そのものを自覚し、明白にしようと常に努めること。
 物語り、表現しながら、物語るとは、表現するとは、どのようなコードによって成立し、支えられているのかを見極めようと常に努めること。物語り、表現しながら、問い続けること。それが、どのようなコードの体系によって規制され、拘束されている不自由な営為であるのかを、まさに、物語り、表現しながら問い続けることが求められているのだ。それが、物語と表現の奴隷から解放されるための唯一の手段である(同時に、物語体の奴隷から解放されるための心許ない唯一の手段でもある)。あらゆるコードを追い詰め、明白にすること。まさに、それだけが残された唯一の方法である。
 例えば、絵を描きながら、絵を描くとは、どのようなコードの体系によって成立し、存在しているのかを、常に問い続けること。その絵画作品自身に、その絵画作品を成立させ、支えているコードを語らせようと試みること。例えば、作品の構造を読み取れるように単純明確な配置構造を設定し、まさに、その作品を成立させ、支えている表現のコードを明示しようと試みたり、逆に錯綜させたりする操作的な方法を実践してみること。
 まさに、生きるとは、しっかりと準拠しているのにも関わらず、意識もしないで自明の理として受け入れている思考や行為、規則(要するに、自覚されていないにも関わらず、確固として束縛している巧妙で狡猾な制度という装置のことだ)に、自分自身がどれだけ縛られ、どれほど拘束されているかを明白にしようという営為に他ならないのではないか。生きるとは、すなわち、さまざまな制度に準拠も依拠もしながら自動的に紡ぎ出される思考や行為の総体そのものである物語を明示し、明白にしようと目論むことに他ならないのだ。その時、自分自身がどれだけ制度や物語に毒されているかを自覚することが、生きるための有効な戦略となるだろう。まずは、自分自身というシステムについて、システムを規制し、存在させているコードの体系について、深く高く強く速く熟考してみることである。できるものならば、すべての物語や表現を成立させ、支えているコードのすべてを明白にしようとすること。自明の理として自動化しているコードそのものを、微に入り細にわたって明白にしようとする視線こそ求められる筈なのである。その視線は、やがて、いつか、すべてのシステムのすべてを白日のもとに暴き出すだろう。
 すべてのシステムのすべてを明示すること。
 あらゆる記号の意味作用を読み取ること。
 すべてのシステムを規制しているコードのすべてを明白にすること。
 生き続けながら、生きるとは、どのような制度や物語に支えられているのかを見極めようと常に努めること。生きつつ問うのだ。自分自身がどのようなシステムを前提にして存在し得ているのかを、そして、どのようなコードの体系に規制され、拘束されている不自由な存在であるのかを、生きながら(つまり制度に寄り添い、物語を紡ぎ出しながら)問い続けること。可能なら、すべてのドクサを白日のもとに暴き出し、並べ、そして、それらを超え、横にずらし、パラドクサの運動を引き起こし続けてやめないこと。生きるとは、すべてのシステムのすべてを可能な限り明白にしようという営為の総称なのである。それは、すべてのコードのすべてを明白にしようという視線の総称でもあるだろう。目を閉じるな、何があろうと目を見開いて、しっかりと見ることだ、すべてはシステムに過ぎないということを、すべてはシステムの連鎖・組み合わせに他ならないということを、すべてはコードにより規制され、拘束された不自由な何物かに過ぎないということを(ただ、ここで、システムとコードの関係について補足的に簡単に触れておくなら、大局的に見れば、すべてはシステムの連鎖・組み合わせに他ならないのであり、個別的に見れば、それらシステムを規制し、拘束し、存在させているのが、まさに、コードに他ならないということである)。
 すべての物事はシステムに他ならない。あれもシステム、これもシステム、システム、システム、システム、システム、システム、システム、システム、システム、システム、システム、システム、システム、システム、システム、システム、システム、システム。

(そしてコードの織物について)

 誰もが同じ物語を繰り返している。いつも表現は同じ何物かの繰り返しだ。しかし、物語も表現も気が遠くなる程に溢れている。例えば、物語恐怖症を患った人間が存在したなら、どうなるだろう、と、ありもしない空想を弄んでみたくもなる。彼は、きっと生きては行けないに違いない。「もう物語るな。もう表現するな。黙れ。この世界を似たような物語、同質の表現で溢れさせるのは、もう、やめてくれないか」と、彼の叫びが聞こえて来そうだ。物語恐怖症の人間は、この世界では生きては行けないだろう。
 物語も表現も溢れかえっている。人は、なぜ、それ程までに執拗に物語り、あくまでも表現を続けてやめないのか。そして、物事が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、なぜなのか。なぜ、すべては、常に必ず意味してしまうのか。そんな問いの幾つかに敢えて答えようとするなら、人間とは、存在とは、そういうものなのだと言うしかないのだろうか。ここで用意されている既に明白な解答は、物語や表現を成立させ、支えているのは、コードであり、物語や表現に限らず、すべてを規制し、存在を可能とさせている何物かが、コードなのだという同語反復的一文である。すべての存在は、中心も周縁もなく錯綜し合い、複雑に絡み合うコードの相互作用に規制されているという訳である(まさに、世界のすべては、コードの織物なのである)。例えば、一つの記号とは、複雑に絡み合ったコードの連鎖・交錯上の一つの結節点なのであって、そこでは、主導権をめぐって、コードとコード、記号と記号が常に攻め立て合う空虚な闘争の場であると言って良い。物語も表現も、まるでそれらが自由で、とらわれのない思考や行為の配置であるかのような錯覚を煽り立てているけれども、本当は、すべてを規制し、存在を可能とさせるコードによって、束縛も拘束もされている不自由な何物かの別名に他ならない(常に人は誤解し、信じ込んでいるが、物語も表現も、まさに、不自由な営為以外の何物でもない虚構の産物に他ならないのである)。物事すべての根底を観察するならば、どのような場にあっても、膨大なコードにより規制され、拘束されているのが理解できる筈である。物事が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、まさに、コードにより規制され、拘束されているからに他ならないのである。コードとは、あらゆる領域で、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、多種多様な場で、必ずすべてを規定している途轍もない何物かに与えられた名称である。要するに、物語や表現だけではなく、すべてを規制し、存在させているのがコードに他ならないという訳である(しかし、どれだけ物語や表現を分析し、コードの内実を微に入り細にわたって明白にし得たとしても、人が、なぜ、物語り表現し続けるのかについては明白にならないというディレンマが、どうしても永続してしまう。この疑問を解くためには、もっと別の立論が必要なのかもしれないが、ここでは、疑問を疑問として指摘するにとどめておく。なぜ、人は、物語り表現し続けるのか、と)。
 コードが、まさに、コードがすべてを規制し、拘束し、存在を許している。
 まさに、世界は、コードの織物に他ならない。

 誰も表現し得ない場、誰も物語ることのできない時空間、まさに、そんな不可能な磁場を用意し準備すること。何も意味しない場、物語も表現も存在し得ないような磁場。物語も表現も一瞬で凍り付き、空白化し、無となり、物語も表現も存在し得ないような、どことも知れない場。誰もが沈黙を強制されてしまう強引で強力な磁場。何も物語らない物語、何も表現しない表現、何も物語れない物語、何も表わさない表現、そんな不可能な存在を誘い出そうとする不可能な試み。しかし、たとえ不可能だとしても、私が心から望むのは、そんな不可能な場であり、限りなく無に近い何物かであり、原理的で構造的な視線に基づくであろう何かに他ならない。誰もが当然で自明の理として無意識に繰り返す同じ物語、類似した表現のすべてを覆し、沈黙へと至らしめること。それは不可能だろうか。
 この世界のどこを見ても同じような物語ばかりではないか。右を向いても左を見ても、表現された何物かしか存在し得ないのだと言わんばかりである。まさに、この世界は、同質で似たような表現で溢れかえっている。物語と表現の大海で溺れようとしているのが、人間の真の姿だと言えるかもしれない。
 多分、救いの道は一つしかない。物語り、表現しながら、物語るとは、表現するとは、どのようなコードによって成立し、支えられているのかを見極めようと常に努めること。物語り、表現しながら、問い続けること。それが、どのようなコードの体系によって規制され、拘束されている不自由な営為であるのかを、まさに、物語り、表現しながら問い続けることが求められているのだ。それが、物語と表現の奴隷から解放されるための唯一の手段である。あらゆるコードを追い詰め、明白にすること。それだけが残された唯一の方法である。すべての物語や表現を成立させ、支えているコードのすべてを明白にしようとすること。自明の理として自動化しているコードそのものを、微に入り細にわたって明白にしようとする視線こそ求められる筈なのである。その視線は、やがて、いつか、すべてのシステムのすべてを白日のもとに暴き出すだろう。
 すべてのシステムのすべてを明示すること。
 あらゆる記号の意味作用を読み取ること。
 すべてのシステムを規制しているコードのすべてを明白にすること。
 コードが、まさに、コードがすべてを規制し、拘束し、存在を許している。物語と表現、そして更にコードへと向けられた視線は、いよいよ知らない間に従ってしまい自明の理として自動化してしまったシステム(ここでは、それを制度と呼称する)を端緒として、すべてのシステムのすべてを逐一明白にしたいと望む筈である。制度と化し、自明の理として自動化したシステムが、どれだけ存在しているだろうか。それは、まさに、等比級数的に膨大であるだろう。しかし、それでも、制度と言い、物語や表現と言い、更にコードと言い、作品と言う、自ら無意識に従っている多種多様なシステムだけでなく、ありとあらゆるシステムの全容を明白にすることこそが重要なのであり、物語と表現の奴隷から解放されるためだけでなく、システムの奴隷からも一瞬でも解放されるための唯一の有効な手立てなのである。すべてのシステムのすべてを明示すること。宇宙の成り立ちや原子の動向、自然生態の実際から本質、各種の言語の仕組みから社会・文化の秩序・規則・現象、人間という生体の研究、思考や欲動の実質、動植物の淘汰から行動など、すべてのシステムのすべてを明示すること。あらゆる記号の意味作用を読み取ること。すべてのシステムを規制しているコードのすべてを明白にすること。そして、誰も表現し得ない場、誰も物語ることのできない時空間、まさに、そんな不可能な磁場を用意し準備すること。何も意味しない場、物語も表現も存在し得ないような磁場。物語も表現も一瞬で凍り付き、空白化し、無となり、物語も表現も存在し得ないような、どことも知れない場。誰もが沈黙を強制されてしまう強引で強力な磁場。何も物語らない物語、何も表現しない表現、何も物語れない物語、何も表さない表現、そんな不可能な存在を誘い出そうとする不可能な試み。そんな不可能な試みであり、限りなく無に近い何物かであり、原理的で構造的な視線に基づくであろう磁場。そして、誰もが当然で自明の理として無意識に繰り返す同じ物語、類似した表現のすべてを覆し、沈黙へと至らしめること。

(『配置』について)

 夢を見た。場所も時間も何もかも明白ではない。ただ、淡々と私が絵を描いているだけの、そんなシンプルな夢である。私以外の誰も登場しない些細な夢。しかし、良く考えれば、まさに、一種の啓示とでも呼べそうな重要な夢。そのどことも知れない場所で、少し大きめの机で私が黙々と絵を描いている。良く見ると、それは、赤い帯の絵だ。雑誌を開いた程度のサイズの用紙に、絵具で赤い帯を描いていた。その絵は、数点あった。赤い帯一本を横位置で中心に描いた絵。赤い帯二本を横位置で左右に並置して描いた絵。そして、赤い帯七本を横位置で上から下に順に並置して描いた絵。今、描いているのは、赤い帯三本を縦位置で左右に並置した絵だ。
 描かれた三点の絵と描かれつつある一点の絵。それは、他愛もないけれど、私にとっては、まさに、啓示的な夢だ。なぜなら、絵画作品の方向性で悩んでいた私に、まさに、解決策と言って良い絵画作品のビジョンが、そこには示されていたからである。それは、私の方向を決定付けたと言える決定的な夢であり、この啓示としての夢が契機となって、私は、赤い帯の絵を展開することになったのだ。
 夢に見た赤い帯の絵を『配置』と呼称することにして論を進めよう。現代美術作品の方法としては、システムそのものとしての美術作品を構築し、作品を成立させているシステムもしくはコードそのものを作品化する厳密で知的な試みも存在しているけれども、ここでは、この夢に即して、それとは異なる方法を考察し、具体化してみたい。それは、作品の構造を読み取れるように単純明確な配置構造を設定し、その作品を成立させ、支えている表現のコードを明示しようと試みたり、逆に錯綜させたりする操作的な方法である。それは、今、赤い帯の絵の夢として語った『配置』という作品群において展開されることになる。ここでは、絵のサイズや細部のデータを省略して、作品のアイデアの核を具体的に記述することによ
って、それがどのような作品なのかを明示することにしたい。
 では、それは、どのような作品か。
 白い紙や壁を想定すること。基本的に、ここでは、サイズは不問とする(厳密に赤い帯の比率を規定すると、短辺一に対して長辺四.一五の長方形であり、一作品内の帯のサイズはすべて同一とする)。また、赤い帯と赤い帯の間隔は、赤い帯の短辺と同じとする。また、色彩の赤についてや技法に関しても幾つかの規定があるが、ここでは拘泥しない。
 赤い帯一本が横位置で、画面の中心に描かれている。
 赤い帯二本が横位置で、左右に並置して描かれている。
 赤い帯四本が横位置で、左右に並置して上下二列に描かれている。
 赤い帯七本が横位置で、上から下に順に並置して描かれている。
 赤い帯十本が横位置で、左右に二本ずつ並置して上下五列に配置して描かれている。
 赤い帯二十四本が横位置で、左右に四本ずつ並置して上下六列に配置して描かれている。まるで、易の図像が二パターン並列されているようである。
 赤い帯三本が縦位置で、左右に並置して描かれている。
 赤い帯八本が縦位置で、左右に並置して描かれている。
 赤い帯十二本が縦位置で、左右に並置して描かれている。
 赤い帯二十本が縦位置で、左右に十本ずつ並置して上下二列に配置して描かれている。
 赤い帯二本が横位置で上下に並置して描かれ、更に赤い帯三本が縦位置で左右に並置して描かれ、それらが画面内に配置されている。この同じパターンで配置を少し変えて描かれた作品が三点描かれている。
 赤い帯七本が横位置で上下に並置して描かれ、更に赤い帯五本が縦位置で左右に並置して描かれ、それらが画面内に配置されている。この同じパターンで配置を少し変えて描かれた作品が三点描かれている。
 ここから記述される作品は、赤い帯と赤い帯の間隔が必ずしも赤い帯の幅と同じとは限らないこととして展開される(個々の作品の実際に準ずる訳である)。
 赤い帯二本が横位置で上下に並置して描かれ(その際、帯と帯の間隔は、帯の長辺と同じにする)、更に赤い帯二本が縦位置で左右に並置して描かれている(やはり帯と帯の間隔は、帯の長辺と同じにする)。状態としては、横位置の帯の一角と縦位置の帯の一角が接するように四本の帯を配置するため、四本の帯が白い正方形を囲むことになる。
 赤い帯二本が横位置で左右に並置して描かれ(その際、帯と帯の間隔は、帯の短辺と同じにする)、更に赤い帯二本が縦位置で上下に並置して描かれている(やはり帯と帯の間隔は、帯の短辺と同じにする)。状態としては、横位置の帯の一角と縦位置の帯の一角が中心で接するように四本の帯を配置するため、四本の帯が十字形を構成することになる。
 同じく十字形パターンの発展(赤い帯の本数を増やして展開する作品だ)。赤い帯三本が横位置で左右に並置して描かれ、赤い帯四本が縦位置で上下に二本ずつ並置して描かれている。やはり帯と帯の間隔は、帯の短辺と同じであり、横位置の帯の一角と縦位置の帯の一角が接するように七本の帯を配置するため、七本の帯が十字形の連接を構成することになる。
 更に十字形パターンの発展。この配置方法を利用して、画面全体を帯と帯による十字形の連接で覆ってしまうように作品を構成する。十字形の連接による一種の模様が現出することになるだろう。
 赤い帯五本が横位置で、赤い帯の幅ずつ上から下にスライドさせた状態で、左右に並置して描かれている。要するに、左の赤い帯の右下の一角と右の赤い帯の左上の一角が必ず接するように配置された作品である。
 赤い帯三本が横位置で、左右二列に上から下へ交互に配置されて描かれている(その際、赤い帯の一角と赤い帯の一角が必ず接している)。詳述すると、画面上方の右寄り(センターラインよりも右)に赤い帯一本が描かれ、その赤い帯の左下の一角に接して、画面の左寄り(センターラインよりも左)に、赤い帯一本が一本目の赤い帯よりも短辺の幅だけ下に下げた位置に描かれている(当然、右の赤い帯の左下の一角と左の赤い帯の右上の一角が接している)。同様にして、三本目の赤い帯が右寄りに二本目の赤い帯よりも短辺の幅だけ下に下げた位置に描かれている。一種の碁盤目状の作品。この方法を利用して、画面全体を赤い帯と赤い帯による碁盤目状の配置で覆ってしまう作品。更に、今度は、横位置を縦位置に変えて画面全体を覆ってしまう。
 赤い帯を隙間なく配置する。例えば、画面内に、二十四本の赤い帯を横位置で、縦六列横四列に隙間なく配置して作品化する。また、横位置の赤い帯だけで画面全体を覆ってしまい、余白を排除した作品(図と地という例を用いるなら、図だけで成立した、地の存在しない作品であり、敢えて言えば、展示される壁が地となる訳である)。
 では、作品の素材を変えたら、『配置』という作品は、どう変容するか。
 多数の建築用のコンクリートブロックの上部一面を赤い絵具で塗り、塗った面を上にして短辺と短辺が接するように並列して作品化。長辺と長辺を接するように並列して作品化。展開例として、ランダムな配置により作品化してみること。
 工業用品の素材を利用して、赤い帯の比率を基準にした赤い直方体を幾つか発注制作し、それらを屋内外に配置する(単純に並置する、積み上げる、壁に貼り付ける)。
 赤いテープ(紙でもビニールでも良い)を用意して、赤い帯の比率に合わせてカットし、配置する。整然と並置するか、ランダムに配置するか、また、鎖状に貼り合わせたり、あらゆる場所に出鱈目に貼り付けたり、方法は多数多様に考えられるだろう。例えば、多数の赤いテープを準備し、森や林に行き、多数の樹木に、一定の高さで(例えば、一メートル高)、赤いテープを横位置で貼り付ける。樹木を媒介として赤い帯の配置が現出するという訳だ。
 帯の赤を規定から外し、単なる帯の配置として作品を捉え直してみると、どうなるか。
 画面内に帯を隙間なく並置したフォーマットを幾つか作成し、それらに多数の画材の多様な色彩や技法によって、ランダムな彩色・描画を実施し、Drawingとして展開する。また、パソコンを利用して、あらゆる配色を画面上に現出させてみる(そのプリントを、さまざまに加工してみる)。その結果を利用して、新たな素描を実施してみる。
 以上が、現時点で明示できる『配置』という作品群の詳細である。聡明な読者には明白かもしれないが、これらの作品が明示もしくは暗示しているのは、作品のコードそのものであると言って良いだろう。作品の深層や作家の人間や生涯の物語などという作品にとっては二義的な事象に拘泥することなく、あくまでも作品の表面だけを逐一見るならば、作品を成立させ、支えているコードそのものが透けて見えて来る筈である。まさに、作品の規制そのものが、そこに炙り出しのようにして現出するのである。だから、作品一点だけを見るのではなく、同種類同傾向の配置構造の作品数点を意識して見たほうが、コードの存在がより明白に感知できるだろう。つまり、物語や表現を自明の理として持続させ、維持させ続けるための巧妙で狡猾な装置である作品という虚構捏造の場において、物語や表現を成立させ、支えているコードを明示しようという試みが、『配置』という作品群に他ならないのである。
 人は、美術作品(特に近・現代美術を指して言うのだが)に接して、常に、作者の生涯や言説などの物語や、構図やテーマから派生する作品の物語や、配色の綾をしか見ようとはしない。まるで作品を成立させ、支えているコードを見ようとは思いもよらないらしいのだ。例えば、ゴッホの生涯、手紙、他の印象絵画の画家たちとの交友、性格の異常さといった伝記的な物語だけを優先して読み込むため、絵画作品は、それらの物語を補完するための挿図としてしか現象していないのではないか。少なくとも、ある作品がもたらす構図や配色を成立させている表現のコードといった物は、常に不問に付されているままである。また、常に変貌を繰り返し続けたとされるピカソではあるが、彼の天才神話がいつも先行してしまうため、ピカソが何を目論み、何を基準として絵画作品を制作していたのかが常に不問に付されている。ピカソの膨大な作品の変遷を追い、その限界や躊躇(抽象絵画への臨界点にあと一歩で到達しようという限界で具象絵画へと逆行してしまうピカソの感性の枠組み)をこそ問わねばならない筈である。作品の表面だけを問題とし、作品の基盤として現前している表現のコードを見ること。物語に埋没するのではなく、コードこそを問題とすること。そうすれば、ピカソにとってキュビスムの方法とは何を意味していたのかも明白になる筈である。例えば、カンディンスキーの形態の変化や配色の綾に目を奪われるのではなく、その構図、その配色の基盤であるコードそれ自体をこそ問題とすること(その形態の配置法、もしくは構図を決定させた基準、そして、それらを可能とさせた不可視のグリッド、配色法など)。まさに、作品を見るとは、作家の物語を優先して作品の深層などという虚構の産物に拘泥するのではなく、作品の表面を問題とし、作品を成立させ、支えている表現のコードだけを見ようとすることではなかったか。そのような視点で作品を視るなら、例えば、モンドリアンの豊饒な可能性と、その限界も理解することが可能となる筈である。優れた物語を堪能するのも重要であるには相違ないが、それらを成立させ、支えている表現の前提とも言えるコードを見ようという営為こそが美術作品を堪能するための第一歩なのである。だから、そのための試金石となるのが『配置』という作品群に他ならないのだ。その作品群においては夾雑物は可能な限り排除され、意識して見れば、コードが感知できるように仕立てられている。作品の深層や作家の人間や生涯の物語などという作品にとっては二義的な事象に拘泥することなく、あくまでも作品の表面だけを逐一見るならば、作品を成立させ、支えているコードそのものが透けて見えて来る筈である。まさに、作品の規制そのものが、そこに炙り出しのようにして現出するのである。物語や表現を自明の理として持続させ、維持させ続けるための巧妙で狡猾な装置である作品という虚構捏造の場において、物語や表現を成立させ、支えているコードを明示しようという試みが、『配置』という作品群に他ならない。
 任意に選択した作家(ただし、この場合は作品の方法に自覚的な現代美術家が望ましいだろうが)の同時期の数点の作品を見るなら、作家が、どのような表現のコードを基準とも基盤ともしているかが瞭然とする筈である。そこで明白になるコードこそを観察し対象化しなければならない。作家の物語や配色の綾や杜撰な作品論(例えば、作家自身が付す体裁的で中途半端なタイトルとか、未消化な解説とか)は、あくまでも二義的な何かに過ぎないのである。常に作品の表面を問題とし、作品を成立させ、支えている表現のコードを見ようと努めること。まずは、作品を矯めつ眇めつ熟視すること。額装されていない場合は、平面作品でも立体作品でも、その側面から上部にわたって細部までチェックし、どのような意図で、この作品は現出されたのかを読み取ろうと努めること。ある作品が現状の形態で存在しているのは、作家の意図なのか(そうであるのなら、それは、どのようなコードに基づいているのか)、偶然なのか、それとも両方の混合か。作品とタイトルの連関は、あるのか(もしあるのなら、タイトルは作品と等価だろうか、それとも作品の意図やイメージの象徴だろうか、逆に大袈裟な見せかけに過ぎないのだろうか)。素材は何か。その構図の決定因は何か。作品の置かれている空間、もしくは場との連関は何か。そして、更に再び、作品を成立させ、支えているコードは、一体、何なのか。作品を見るとは(批評するとは、と言っても同じだ)、まずは、以上の手続きを指すのであって、作家本人の伝記的物語や作家自身の作品論などは、あくまでも二義的な要素に他ならないのである。作品だけを見ること。そして、作品を成立させ、支えているコードを見ること。それこそが作品を見る意味の第一義なのである(作品を多義的なテクストと解釈する立場に身を置くのは、多分、以上の手続きを踏まえた後で成立するのではなかったか)。

 人が意識しようとしまいと、宇宙の成り立ちや原子の動向、自然生態の実際から本質、各種の言語の仕組みから社会・文化の秩序・規則・現象、人間という生体の研究、思考や欲動の実質、動植物の淘汰から行動など、すべての物事(生命、環境、その他、存在するありとあらゆる事物のすべて)は、常にそれぞれがシステムとしてしか存在し得ない。そして、それらシステムのそれぞれが連鎖し合い、組み合わさることで、途轍もなく膨大で複雑な怪物的状況を呈している。だから、今、必要なのは、流動し錯綜せるシステムの流体力学とでも言うべき方法なのである。執拗に繰り返すが、まずは、物語や表現を成立させ、支えているシステムそれ自体こそを問わねばならないだろう。端的に言えば、物語や表現に限らず、すべてを規制し、存在を可能とさせている何物かが、コードなのであり、すべての存在は、中心も周縁もなく錯綜し合い、複雑に絡み合うコードの相互作用に規制されているという訳である(まさに、コードの織物だ)。例えば、一つの記号とは、複雑に絡み合ったコードの連鎖・交錯上の一つの結節点なのであって、そこでは、主導権をめぐって、コードとコード、記号と記号が常に攻め立て合う空虚な闘争の場であると言って良い。物語も表現も、まるでそれらが自由で、とらわれのない思考や行為の配置であるかのような錯覚を煽り立てているけれども、本当は、すべてを規制し、存在を可能とさせるコードによって、束縛も拘束もされている不自由な何物かの別名に他ならない。例えば、言語。それは、統語論(統辞論、構文論)や意味論などの煩雑なコードの体系に規制され、構造化されて初めて機能する壮大な体系に他ならないのである。言語を習得し(言語の多様なコードの体系に拘束されて、というのが実情である)、自明の理としてしまえば、人は、自由自在に物語っていると錯覚し得ると言うのに過ぎない。例えば、文化。それは、まさに、錯綜し錯乱した恣意性の集積したシステムの多数多様体なのであり、別の言い方をすれば、膨大で複雑に絡み合った多種多様な記号の束なのである。そして、それらを成立させ、支えているのがコードに他ならない。だから、文化の内部で無自覚に生きるなら(つまり、文化の産出する情報を無自覚に摂取するなら)、人は、文化の捏造する不自然な規範に操作される奴隷となるしかないだろう。要するに、物事すべての根底を観察するならば、どのような場にあっても、膨大なコードにより規制され、拘束されているのが理解できる筈である。物事が常に意味してしまい、そして、意味付けられてしまうのは、まさに、コードにより規制され、拘束されているからに他ならないのである。それは、あらゆる領域で、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、多種多様な場で、必ずすべてを規定している途轍もない何物かに与えられた名称である。つまり、物語や表現だけではなく、すべてを規制し、存在させているのがコードに他ならないのである。すべての事象を規制しているコードのすべてを自覚しようとすること。美術作品においても、その姿勢は変わらない。表現も作品も物語も、すべての事象は、コードにより規制されることで存在し得ているのである。無自覚にコードに拘束されることは、コードの奴隷に堕すことに他ならないことを自覚すべきである。
 すべてのシステムのすべてを明示すること。
 あらゆる記号の意味作用を読み取ること。
 すべてのシステムを規制しているコードのすべてを明白にすること。
 生き続けながら、生きるとは、どのような制度や物語に支えられているのかを見極めようと常に努めること。生きつつ問うのだ。自分自身がどのようなシステムを前提にして存在し得ているのかを、そして、どのようなコードの体系に規制され、拘束されている不自由な存在であるのかを、生きながら(つまり制度に寄り添い、物語を紡ぎ出しながら)問い続けること。可能なら、すべてのドクサを白日のもとに暴き出し、並べ、そして、それらを超え、横にずらし、パラドクサの運動を引き起こし続けてやめないこと。生きるとは、すべてのシステムのすべてを可能な限り明白にしようという営為の総称なのである。それは、すべてのコードのすべてを明白にしようという視線の総称でもあるだろう。目を閉じるな。何があろうと目を見開いて、しっかりと見ることだ。すべてはシステムに過ぎないということを。すべてはシステムの連鎖・組み合わせに他ならないということを。すべてはコードにより規制され、拘束された不自由な何物かに過ぎないということを。
 しかし、人は、常に、すべてを規制しているコードを見ようとは決してしないのだ。だから、人は、美術作品に接しても、同様に、作者の生涯や言説などの伝記的物語や、構図やテーマから派生する作品の物語や、配色の綾をしか見ようとはしないのだ。作品を成立させ、支えているコードを見ようとは決して思いもよらないらしいのだ。だから、物語が限りなくゼロに近い状態に限定し、あくまでも作品の構造を読み取れるように単純明確な配置構造を設定し、まさに、その作品を成立させ、支えている表現のコードを明示しようと試みたり、逆に錯綜させたりする操作的な方法による『配置』という作品群を展開することにより、人の意識をコードへと向かわせ、なおかつ、人をコードの呪縛から解放させるためのささやかな契機のための第一歩とすることが求められているのである。『配置』という作品において、人は、作家の物語だの伝記だの杜撰な作品論だの二義的な事象を見ようとしても無駄である。そこでは物語は限りなく稀薄である。人は、そこで、作品を規制しているコードへと誘われるしかないのだ。そして、人は、そこで、コードの織物の一端を見ることになるだろう。コード、まさに、コードがすべてを規制し、拘束し、存在を許しているのである。

 世界は、コードの織物に他ならない。

inserted by FC2 system