tapingによる現代アート作品。
テープ(=つなぐ、四角形を貼る、包帯も?)による作品(抽象表現・即興表現)。
はかなさ、よるべなさ、時間性(壊れること、壊れて行くこと)。
taping art:taping artをめぐって
2011年3月15日更新
■taping artをめぐって

<イントロ>
tapingによる現代アート作品。
テープ(=つなぐ、四角形を貼る、包帯も?)による作品(抽象表現・即興表現)。
はかなさ、よるべなさ、時間性(壊れること、壊れて行くこと)。

<はじめに>
 これから書かれる文章群は、どれをとっても時代の流れに逆行する内容であることを最初にお断りしておく。だから一般的な絵画論・美術論や入門的知識への期待は、常に裏切られるであろうことも、あわせて申し添えさせていただく。ここで語られるのは、あくまでも私が考える理想の絵画、理想のアートでしかないからだ。それをあらかじめ了承の上でおつきあいいただけるのならば、私にとっても非常に幸いである。
 また、どこか遠くで、蓮實重彦『表層批評宣言』の冒頭がかすかに彩りを添えるかもしれないことも申し添えさせていただこう。

<新たなアートをめぐって>
 人は、なぜ、絵画を描くのだろう。常にそういう問いかけが私には存在し続けている。「人は、なぜ、絵画を描くのだろう」と。描くことは常に不自由な営為にほかならないのに、人は常に描くことをやめることを思いもしないようなのだ。
 誰もが描くことを自由で楽しい営為と錯覚しているが、描くことは常に不自由で苦しい営為にほかならないのだ。自由に描くとは、訓練された筆さばきで何ものかを描き写すという虚偽の営為にほかならない。しかし、訓練された筆さばきで何ものかを描き写すという虚偽の営為こそが美術という営為の内実なのだ。それが美術といい、絵画というアートの真実である。それは、厳密に考えるならば、単に工芸的な美術品でしかない。果たして、それが、アートなのだろうか。
 絵画は虚偽の装置である。それは、ゴダールにならって表現するならば、馬の表象を馬だと信じ込ませる2次元表象にほかならない。そこにあるのは、馬ではない。馬の表象なのだ。しかし、絵画の罠に飼い馴らされた者には、それが馬にしか見えないだろう。それが絵画の真実の姿なのだ。
 だからこそ、ルネ・マグリットはパイプの表象に「これはパイプではない」という文章を描き添えたのだろうし、ジャスパー・ジョーンズはアメリカ国旗の表象を描いたのだ。
 絵画は、常に人を騙して来た。それは、絵画誕生の起源からそうだろう。そのような絵画に興味はない、なぜなら、そこには虚偽しかないからだ。だからこそ、今、絵画に求められるのは、絵画の捏造する虚偽性・虚構性を捨て去り、何も表象しない、虚偽・虚構の装置ではない絵画(それを真実の絵画と呼称しても誇張ではないとするならば、まさに真実の絵画・絵画の真実である)を現実化することではなかったか。
 絵画だからこそ夢見ることを許される、何も表現しない表現・何も表象しない表象を現実化すること。それが、絵画の夢であり、絵画の理想だ。

 では、具体的には、どのような絵画が真実の絵画足り得るのだろうか。当初、私は、抽象絵画一般にそれを見ようとしていた。特に抽象表現主義以降のアメリカを中心とする現代絵画に真実の絵画を夢見ていた。そして、オートマティックに描きなぐったような即興絵画こそが、私の信じる真実の絵画・絵画の真実だと信じ、自らも絵画を描くことを実践していたのである。
 線描が主体のシリーズ、色彩の重なりが主体のシリーズなどがそれである。そこには何か具体的な何かが描き写されているわけではない。描き損じた出来損ないのような線や色彩の痕跡が重なっているだけである。ただ描かれただけの絵画。書き損じられたかのように単に描かれた絵画。ただ単に撮影されたピンボケの写真。
 しかし、それらの私の絵画や写真は、「絵画だからこそ夢見ることを許される、何も表現しない表現・何も表象しない表象を現実化」しているのだろうか。「何も表現しない表現」を表現し、「何も表象しない表象」を表象しているのではないのか。そうであるのならば、絵画とは、どのようなコードによって成立しているのだろうか。そこで、私の着眼点は、そこに拘泥することとなった。

 絵画とは、どのようなコードによって成立しているのか。それを作品化する営為を、「真実の絵画・絵画の真実」と定義しよう。それは、「絵画だからこそ夢見ることを許される、何も表現しない表現・何も表象しない表象を現実化すること。それが、絵画の夢であり、絵画の理想」でもあるはずだ。
 絵画とは、どのようなコードによって成立しているのか。それを作品化する営為こそが、私が2011年初頭より制作し、まずはインターネットで公開をスタートしているtaping artという作品群である。
 単純にその内容を紹介するならば、tape(=つなぐ、四角形やテープ状のものや帯を貼る)による作品である。
 そこでは、作品を成立させているコードと作品が限りなく一体化している。作品がコードであり、コードが作品である、それが、taping artである。そして、それこそが、新たなアートにほかならない。
 taping art作品を見ることは、taping art作品を成立させているコードを見ることにほかならない。taping art作品について考えることは、taping art作品を成立させているコードについて考えることにほかならない。それは、アートを見ることは、アートを成立させているコードを見ることにスライドするだろう。アートについて考えることは、アートを成立させているコードについて考えることにスライドするだろう。

 今まさに必要なのは、自明の理としてあらゆる局面に存在し支配しているコードについての認識を持つことではないだろうか。なぜなら、すべてはコードにより規制され、拘束された不自由な何物かに過ぎないのだから。
 しかし、人は、常に、すべてを規制しているコードを見ようとは決してしない。人は、美術作品に接しても、作者の生涯や言説などの伝記的物語や、構図やテーマから派生する作品の物語や、配色の綾をしか見ようとはしない。作品を成立させ、支えているコードを見ようとは決して思いもよらない。だから、作品を成立させ、支えている表現のコードを明示し、人の意識をコードへと向かわせるためのささやかな契機のための第一歩とすることが求められている。人は、そこで、作品を規制しているコードへと誘われ、コードの織物の一端を見ることになるだろう。コード、まさに、コードがすべてを規制し、拘束し、存在を許しているのである(世界は、コードの織物に他ならない)。

 だからこそ、今は、tape(=つなぐ、四角形やテープ状のものや帯を貼る)によるtaping art作品に注目すること。





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